いつかどこかの世界
 『ワカヤマール物語』
   〜人魚の微笑み〜


いつかどこかの世界に、ワカヤマ−ルという国がありました。
ワカヤマ−ルは大国オオサカリアの隣にあり、これといった特徴のない国です。
けれど人の心はとてもおだやかで、
どこにもまけないことが一つだけあります。
それは国境地帯にほど近いロ−サイ山のふもとに
一人の魔女が住んでいることです。
「北の魔女アイコ−ディア」
人々は敬愛と親しみを込め、彼女のことをそう呼んでいます。


北の村は今、雪の季節を迎えています。
どこを見渡しても辺りはは一面の銀世界。
おまけに今日は朝靄がうっすらとたれ込めているので、白い世界はこの世の果てまで
続いているのかと思われるほどでした。
家も木も山も、全てたった一つの色の光と影で形作られています。
「人の力の及ばぬカンバスには、天使が画を描く」と、かの宮廷画家
ニシカワルドさんが言ったのも頷けますね。
さて、・・・
そんな美しい朝を迎えた魔女の家はいつものように適当に早いのです。
6人の見習い魔女達が、それぞれの持ち場でいろいろな仕事に取り掛かかり、
カマドからは甘く香ばしい香りが漂い始めます。
でも、どうしたわけか今日は少しだけ様子が違います。
もくもくと床を拭き、セッセと窓を磨き、一生懸命リンゴの木の雪を払ってカマドに薪を入れるのですが、
その合間に誰もがふと顔をあげては小さく溜め息を付くのでした。
そのどこがいつもと違うのかですって?
そうですね、まだ北の村に来たばかりではわからないかもしれませんね。
でも、とにかくこの家の朝の賑やかさと言ったら、チョットやソットではないと言うことだけは
間違いのないことです。
仕事が始まるやいなや、昨日からナカザ−ラの芝居小屋の出し物が変わったとか、
髪飾りを買うならハンキュリオンの店だが、レ−スの肩掛け色が豊富なのはミツコシリアである。
などといったような、娘達がワクワクするような話題が交わされ、その間にそれこそ魔法のように
テキパキと仕事が片づいていくのです。
そんな彼女達がお喋りもしないでいるのですから、これはきっと何かわけがあるにちがいありません。
そうこうするうち、ぼんやりと同じ窓を3回も拭いているミヤモト−レが朝靄の残る雪道の彼方に
何やら小さく動く点を見つけだしました。
慌ててかけていたメガネを拭いて目をこらすと、ちっちゃな点はしだいに大きくなり、
すぐに白い息を吐きこちらに向かって歩いてくる人影だとわかるようになりました。
そして次の瞬間、子ウサギのように息をころして見ていたミヤモト−レの頬にパッ!とバラ色の
輝きがよみがえったのです。
「帰ってきたわ!」
静まり返った家にその声が響き渡ると、部屋の方々から手に手にホウキやフライパンを持った
見習い魔女達が転がり出て来ました。
今までしんみりとしていた事が嘘のように、暖炉の炎さえどこかしら嬉しそうにパチパチと音を立て始めました。
「どこ、どこなの!」われ先に窓の傍に駆け寄る弟子達の中から、庭でリンゴの木の雪払いをしていた
オオマタ−ヌとヤマダリアがいち早く出迎えに駆け出します。
そうです、誰もがこんなふうに待っていたのですもの、もうそれが誰かはおわかりですね。
古文書や古代文献の研究のため王立図書館に招かれ、1週間もの間留守にしていたこの家のあるじ、
北の魔女アイコ−デイアのご帰宅です。
魔女の家は瞬時に笑顔で満たされ、やれ誰がお師匠様のコ−トをもつだとか、やれ食事が先だと
静だった時間はそれを埋めて余りある状況に立ち戻りました。
扉が開いた途端、アイコ−ディアは両手を広げ走り寄る弟子達をマントにくるみ込みました。
「はいはい、みんなお留守番ごくろうさま。 何も変わったことはなかった?」
息を弾ませながら弟子の顔を一人一人見回したアイコ−ディアは、家の中がいつも通りに美しく
整えられていること、誰一人風邪をひいた様子のないことを見定めると、やっと安心したように言いました。
「やれやれ、みんなの顔を見たら途端にお腹が空いてきたわ。 だって早くみんなにあいたくて
ずっと歩きっぱなしだったのですもの」
その言葉に何故か驚いたのはミゾウラリアです。
彼女はキャッ!と叫ぶと、一目散に台所に走り込んでゆきました。
「あのぅ、お師匠さま・・・カバンは?」
ミ−ヤ・チャンが不思議そうに訪ねました。
すると「あらいけない、忘れていたわ」と、アイコ−ディアが申し訳なさそうにドアを開け、
ちょっぴり困った表情で両手を腰に当てます。
するともう一つの影が、まだ遙か遠くの方から、えっちらおっちらやってくるところでした。
後はほんの少し弟子達に手伝って貰いやっとの事で魔女の家に辿り着いたお客様は、
王立図書館長のアカマツ−ルさんでした。
彼は「女性にそんな大きな荷物を持たせては失礼だから」と、アイコ−ディアからカバンを取り上げたまでは
良かったのですが、やはり普通の人間に魔女のカバンはチョットばかり重すぎたようです。
だけど今更返しますとも言えず、彼は歯を食いしばり、ココまで男の面目という妙に重いモノを運んできたわけでした。
もちろんこのカバンはアイコ−ディアが持っているカバンですから普通のカバンなどではありません。
大きな口金のついた古めかしいデザインのカバンは、なんでもマラサウラの革だそうで、
入れたいと願うモノであれば、どんなモノでも入るという実に不思議なカバンでありました。
アイコ−ディアが北の村に越してきたときには、この家を入れてきたというのですからたいしたカバンですね。

さてさて、1週間ぶりに皆で囲むテ−ブルは、お客様も交えて実に楽しい朝食となりました。
せっかく一生懸命作ったパイにこげめがついてたとシュンとしているミゾウラリアに、
アイコ−ディアは優しく言います。
「私が食べたかったのは、ただ美味しいだけのパイじゃなくて、ミゾウラリアの優しさがいっぱいつまったパイよ」
その言葉を聞くと、ミゾウラリアの顔がパッと明るくなり、焦げたパイもたまにはいいかもしれないと思えるようになりました。
やがて皆がおなかと心の両方を満ち足りさせた頃、アイコ−ディアはおもむろにカバンをテ−ブルの上に乗せました。
本当は小指でチョイと持てるのですが、アカマツ−ルさんの手前、わざとヨッコラショっと声をかけたりします。
パチッと金具の外される音は、弟子達にはまるで期待で胸が破裂したのかと錯覚させる
ほどだというのがおわかりになるでしょうか?
だって、アイコ−ディアがどこかに出かけた時に買ってくるおみやげは、いつも見たことも聞いたことも
ないモノばかりなのですから、それはもうドキドキしないわけがありません。
アイコ−ディアはおもむろにカバンの中に両手を肩まで突っ込み、しばらくゴソゴソとかき回し、
2.3度首を傾げた後でようやく一抱えもありそうな本の山を取り出しました。
「きゃぁ〜!」弟子達の歓声は予想以上のものでした。
だって弟子達はみんな本が大好きなのです。
それにアイコ−ディアが持ち帰った本は、ずいぶん古ぼけていますがとても美しい挿し絵がいっぱい書かれた
絵本だったのですから、その喜びようと言ったらありません。
その様子を見ていたアイコ−ディアは、満足そうにコホンと咳払いをすると、
「それでは今日の分のお仕事を片付けましょう」と言いました。
弟子達がはしゃぎながらそれぞれの持ち場に帰った後、アカマツ−ルさんはアイコ−ディアに言いました。
「あなたが早く帰りたがったわけがわかったような気がします」
アイコ−ディアは嬉しそうに目を細めたまま、しかし誇らしげに
「ええ、そうでしょうとも」とこたえました。
そして、きれいさっぱりアップルパイをたいらげたアカマツ−ルさんの皿を見て、
「お互いいつもと違う顔が見られると嬉しいものですね」と、また少し悪戯っぽい微笑みを浮かべました。
本当は甘いモノが苦手なアカマツ−ルさんは、今日中にカダ−ルまで行き、
明日の朝にはまたココに寄ってからお城に返ると言い残して旅立っていきました。
何故また帰りも寄るのか? なんて事を弟子達は気にもとめませんでしたが、
アイコ−ディアだけは、「そうでしょうとも」と、とてもご満悦な様子でした。

さてさて、その日の夜の事です。
夕食の後、弟子達は暖炉の前に座り込むとそれぞれに絵本をひろげ始めました。
とても素敵なお話に、皆は挿し絵を見せあい女の子らしい溜め息を付き合います。
でも、しばらくするとオオマタ−ヌが顔をあげ、
「他のお話はみんな幸せに終わるのに、どうしてこの本だけどこんなに可哀想なのかしら」
といってアイコ−ディアに本を見せたのでした。
アイコ−ディアが本に手をやると、それには『人魚姫』と書かれていました。
「王子様に恋をしてやっとの思いで逢いに行くのに、王子様ったら違う人と結婚しちゃうのよ」
そうヤマダリアが不機嫌そうに言います。
「いくら王子様と引き替えでも、声をなくしちゃうのなんて私はイヤだわ」
歌が大好きなタムラ−ヌが言うと、皆はウンウンとうなずきます。
「そんな、何もかも捨ててなんて、きっと私には出来ないわ」
ミゾウラリアは少し方をすくめて下を向いています。
「でも、相手のことを考えてしまうと、そんな決断は出来にくいものですよね」
残っていたお茶をすすりながらミヤモト−レがつぶやくと、皆が自分の方を向いているのに気づき、
「あっ、いえ・・・その・・・」と頬を染めて慌てふためきました。
そしてただ一人黙ったままの弟子に「ミ−ヤはどう思った?」とアイコ−ディアは優しく問いかけました。
しばらく黙っていたミ−ヤ・チャンは、
「私は人魚じゃないし、その・・他の人のことはわからないから」と、こたえました。
みんなの言葉をそれぞれにかみしめた後、アイコ−ディアは驚くようなことを話し始めました。
「そうね、私が人魚にあったのはね・・・・・」
そうです、お師匠様はアイコ−ディアなのです。
それは何があっても不思議ではないと言うこと、弟子達ははやる心をおさえ、息をこらして耳を傾けました。
お話はアイコ−ディアがまだ魔女になって間もない頃の事です。
新米の魔女は沢山の国を旅し、山ほどの経験を積まなければならないので、アイコ−ディアも例外なく
長い長い旅に出ていたのです。
とある海辺の町にたどりついたときのこと、少し足が疲れたので磯の岩場に腰を降ろして海を
見つめておりますと、足元の方から小さな声が聞こえてきたのでした。
元は声なのか波の音なのかわからないほどでしたが、しだいにしっかりとした言葉になって聞こえてきたのです。
「あなた、私の声が聞こえるの?」
アイコ−ディアが水面に目をやると、サッと波がたち中から今まで見たこともないような
美しい少女が現れました。
「あなたは、魔女なのですね」
少女はアイコ−ディアの帽子に目をやり、そう言いました。
アイコ−ディアは魔女帽子をかぶれるようになってまだ日が浅かったので、嬉しさとチョッピリ恥ずかしさで
頬を染めましたが、ほんの少しだってこんなふうに現れた少女を驚いたり怖がったりはしませんでした。
それはこの旅に出る前、自分のお師匠様からいろんな事を沢山教えられていたからです。
「波打ち際には話を聞いて貰いたがっている者がたんとおる。もしも出会うことがあれば
存分に聞いてやりなさい」
アイコ−ディアはお師匠様の言いつけをちゃんと守ったのです。
でも、お師匠様の言いつけではなくとも、アイコ−ディアはきっとそうしたのだと思います。
だってその少女はもう何年も笑ったことがないかと思えるほど、悲しい瞳の色をしていたから・・・。
そして何気ない会話を交わすうちに、少女はとても沢山のことを話してくれました。
でもその話はとてもとても悲しいものなのです。
アイコ−ディアは心を軋ませながら懸命に話を聞きまた。
少女は人を好きになってしまった人魚であること。
そのために人魚である全てを失ってしまったこと。
恋に破れたこと。
海の藻屑になったこと。
自分の悲しい身の上をともすれば他人事であるかのように話す彼女に
アイコ−ディアはいつしか涙がこぼれるのをとめることが出来なくなっていました。
その様子を見て驚いたのは少女の方です。
「まあ貴方、私の話を聞いてくれたのですね」
ただ泣いているだけのアイコ−ディアに少女はそう言いました。
「今まで話を聞いてくれた人は何人も居ましたけれど、けしてこの気持ちまでは受け取って貰えなかったわ」
くしゃくしゃな泣き顔を上げ、アイコ−ディアは不思議そうに少女を見ます。
だって自分は泣いているだけなのに、どうしてそんなことがわかるのか不思議だったからです。
人魚はそれにこたえるかのように、アイコ−ディアの膝から何かをつまみ上げました。
「ご覧なさい、こぼれた涙が真珠になっててよ。心から人魚の気持ちで泣かないとこうはならないの」
少女は再び顔を伏せましたが、次に顔をあげたときには何故かほんにの微かではありますが、
微笑んでいたように思えました。
「私、あの人にありったけの想いを伝えたわ。 それって悪い事じゃ無いはずよね」
アイコ−ディアは可哀想な人魚に何か言葉をかけようとするのですが、
頭の中はすっかり大洪水で、もう気の利いた言葉の一つもでてきません。
そんなアイコ−ディアに、少女は自分の頬からこぼれた二粒の真珠を持たせました。
「貴方のはすぐに涙に戻ってしまうけど、人魚の涙は真珠のままだから、これを貴方にあげましょう」
アイコ−ディアが真珠を受け取った瞬間、サ−ッ!と波が引き今まで聞こえなかった
海鳥や波や風の音が戻ってきました。
引き替えに人魚の姿はもうどこにも見えなくなっており、気が付けばお日様は西に傾き、辺りは
薄暗くなり始めていました。
アイコ−ディアは自分のふがいなさに、また涙があふれ出します。
せっかく魔女になったのに、自分は何もできなかった。
そう思って流した涙は、もう海と同じ味をした人間の涙でありました。

「・・・・・ずっとず〜っと昔のお話ですけどね」
話し終わった後、アイコ−ディアは帽子に手を伸ばし、チョイと軽く整えました。
弟子達はその手の側にある真珠の耳飾りを知っています。
でも今、見慣れたお師匠様の耳飾りは、いつもの耳飾りではなく、
魔女の存在を示す証のようなものだと言うことがわかりました。
「誰だって後悔はしますけど、後悔をしている自分まで嫌いになったら、もっと辛いです」
ミ−ヤ・チャンがつぶやきました。
「人魚さんも自分なりに生きたことに、自分で気づけたみたいですし」
タムラ−ヌが湿っぽさを吹っ切るように言います。
そして、
「海の底で好きな人を思い続けたまま、ただお婆さんになるなんて、私には出来ないかも・・・」
と、ミゾウラリアが言うと、ずいぶんさっきと違うと言われ、
みんなでお腹を抱えて笑いました
「あのままずっと涙が真珠になるのでしたら、みんなに幾らでも綺麗な首飾りを作って上げられるのにね」
アイコ−ディアはそう言って笑ったのですが、
弟子達は誰一人嬉しそうな顔をしませんでした。
それどころかヤマダリアが鳴きそうな顔をして言います。
「そんなのいりません、首飾りなんて欲しくありません。 私はお師匠様がいつも笑っていてくれたら、
・・・それでじゅうぶんです」
アイコ−ディアは少し言葉をつまらせましたが、
「ありがとう、もう言わないわ。 ありがとう、ほんとうに良い娘達ね・・・・」と、
一人一人の身体をきつく抱きしめながら、何度も何度も弟子達に礼を言いました。

そして翌日、いつもの朝はいつものようにやってきました。
魔女の家は、いつものように適当に早いのです。
でも、この家の住人達は、そのいつもの平凡さが自分で一生懸命作り上げた
平凡だと言うことをちゃんと知っています。
さてさてパイが焼ける頃には約束通り、アカマツ−ルさんもやって来ました。
そして今、アップルパイが冷めるのも忘れ、アカマツ−ルさんは本を食い入るように見ています。
それは『人魚姫』の最後のペ−ジでした。
涙を流していたはずの人魚姫が、微かですが確かに微笑んでいます。
驚いて声を失ったアカマツ−ルさんの肩に手を置き、アイコ−ディアは
実に優雅な仕草でニッコリと微笑みます。
そう、ここはいつか何処かの世界ワカヤマ−ル。
いやせぬ悲しみ以外、何が起こっても不思議ではない国なのです。